「決断」<後>~堀孝輔(高田高校)、川東拓斗(坂出工業高校)

 インハイ当日。川東は他の選手の演技を極力見ないように努めていた。昨年インハイ覇者の安藤、ジュニアから共に戦ってきた栗山巧、そして同じ班で演技する堀―――どの選手も、自分より上に来る可能性のある選手だ。演技を見れば、点数を知れば、意識してしまう。だからできるだけ情報を入れないように努めた。代わりに「彼らは全員、ノーミスで演じきった」想定で練習していた。それは、学校の体育館で練習していた時からずっと頭に入れてきたイメージだった。

 

 しかし練習会場で体を動かしていると、川東の耳にもそれとなく、安藤のミスの情報が入ってきた。だが、この時の彼にはもっと差し迫った問題があった。リングの2本投げが、ここにきて狂い始めていたのだ。

 

 今年の川東の演技は、リング・スティックともにハイリスクな内容になっていた。恐らく他のどの選手よりも投げが多いうえ、タンブリングの難度も上がっている。その難度の高いタンブリングも、体力が最も消耗している演技終盤に入ってる、といった具合で、徹底的に「攻めた」内容になっていた。間違いなく、「勝ち」にいく選手の構成だった。

 

 ただでさえ難しい演技にもかかわらず、直前になってその投げが安定しない。川東はこの2本投げを、直前練習で2度落下させていた。そしてそんな不安を抱えたまま、本番に臨むこととなった。

 

 名前をコールされてフロアに上がった瞬間、川東は恐怖心に襲われる。が、腹の底から這い上がってくるそれを、彼は意志の力でねじ伏せた。

 

 演技が始まると、テンポのいい曲にのせてフロアを駆け回った。リスクや、不安のあった2本投げさえも、思い切りよく投げ上げ、そしてキャッチして見せた。消耗が激しいはずの終盤のタンブリングまで、勢いたっぷりに演じきった。完璧なまでのノーミスに、会場は沸く。意志の力が、恐怖心に打ち勝った瞬間だった。

 

 そしてこの後、点数が表示されると再び会場は沸く。9.400点、今大会最高得点が表示された。もちろん川東の自己最高得点でもあった。だが、川東はこの得点を見てはない。さらに言うなら彼はこの時、会場が沸いたことさえ覚えてはいなかった。この時、彼はそれほどまでに集中していた。

 

*  * *

 

 川東のリングで会場が沸くのを、堀は耳にしていた。だが、得点は見ていない。意識して見なかったこともあるが、堀はこのとき、自身の調整に腐心していた。

 

 スティックの演技を終えた時点で、堀は動けないほどに体力を消耗していた。インハイは4名が1組となって、その組の中で順番に2種目を演じる。1種目を通した後、他の試合よりもはるかに早いターンで2種目を通さなければならない。

 

 堀ももちろんこのことを知っていた。練習でもそれをイメージしてきたし、ある程度の疲労も想像していた。だが――

 

<それでも、本当になるとつらい>

 

 これがこの時の本音だった。練習会場で無理やり動こうとしたが、「気持ちが付いていかなかった」。「体力がないのが課題」だと話す堀だが、それは環境からすれば仕方のないことでもあった。多くの選手は体力作りのために、通し練習を繰り返す「通し込み」をするのだが、彼はその通しができない環境だったからだ。その状況でここまでのパフォーマンスを演じたことの方が、むしろ驚異的だった。

 

 体力の消耗を如実に感じながら、堀は2種目の本番を迎える。会場は再び、妙な静けさに包まれる。あるいはこの独特の空気が、彼の消耗に拍車をかけたのかもしれない。

 

 だがここでも堀は、その空気に押しつぶされることなく演技を披露する。「オペラ座の怪人」の印象的な旋律にのせて、ひとつひとつの動きを確実にこなすことに努めた。軽やかな手具操作に、音感の良さを感じさせる、曲と動きの一致。演じながら、堀は自身の動きの固さを感じていた。だが演技が終わった後の拍手は、それが十分に称賛に値する出来だったことを証明していた。無言の圧力とも言えそうな独特のプレッシャーの中、スティックに続き、リングも大きなミスなく演じ切ったのだ。

 

 得点は9.300点。暫定トップに躍り出た。

 

*  * *

 

 自身が最高得点を叩きだしたことを知らない川東だったが、リングの演技に手応えは感じていた。

 

<いける。スティックも、ミスらない>

 

 リングのノーミスが、気持ちを後押ししてくれた。2種目に向かう川東は、「攻める」気持ちに満ちていた。

 

 運命のスティック、彼はフロアに上がっても全く緊張していなかった。集中力と、そしてリングで掴んだ手応えが、緊張感をどこかへ追いやっていた。

 

 スティックは彼の持ち味である「体操の美しさ」が全面に押し出された演技だ。なかでも演技中盤の斜前屈は、彼にとっては見せ場と言っていいものだ。深く素早い屈伸、そして胸の美しいラインは、ため息を誘うほどだった。その一挙手一投足で、会場は彼のものへとなっていった。どこか悲哀のある曲に後押しされながら、迎えたのはラストの大技。手具を投げ上げての3回前転だ。手具を高く放り投げ、前転を1回、2回――2回目を終えたところで、川東は無意識に天井を見上げた――

 

 この2秒にも満たないであろう瞬間の思考を、川東は覚えている。川東は3回前転の途中で、スティックの行方を目で追ってしまう癖があった。だからこの日も2回目で天井を見上げたのだ。そして思った。

 

<3回、いける>

 

 危ないと思えば2回でやめることもできたが、川東はこの時「いける」と思った。実は本番直前、林監督からは「欲を出すな」と言われていた。それはまさにこうした状況を見据えてのことだった。瞬間、監督のその言葉が頭をかすめたが、すぐに思いなおす。

 

<ここで2回で取って、納得するか――>

 

 高校最後のインハイで、彼は決断を下す。

 

 川東は3回目の前転に向かった。彼の少し先で、スティックが落下する音がした。

 

*  * *

 

 多くの葛藤と、判断が交錯した試合だった。そして堀にとって、のちに大きな意味をもたらした決断のひとつが、スティックをノーミスでまとめるべく、技を抜いた事。そして、その直後の川東の9.400という得点を見なかったことだろう。堀は後になってこう話す。

 

「あの時、川東さんの得点を見ていたら結果は変わっていたかもしれない。悪い方向に」

 

 十分な通し練習なしでの会場入り。これまでにない空気感に包まれた、本番会場。予想を超えた体力の消耗――。2年の彼にとって、それらはどれも初めてで、そしてひとつひとつが大きな壁だった。動きや手具操作の上手さ、そして演技の安定感は、彼の選手としての魅力だ。だが今回、彼の優勝を支えたのは恐らく、どんな状況に際してもブレることのない、例えブレたとしてもそれを自身で修正することができる、調整力に尽きる。

 

 今回の大会を経て、彼はそれをより確かなものにしたはずだ。どんな状況でも実力を発揮できる選手がいるとしたら――それは今後、どの選手にとっても大きな脅威になりうる。

 

 

 一方で惜しくも3位となった川東は、演技を終えた後、清々しい表情でこう話した。

 

「自分のやりたいことができたので、悔いはないです」

 

 スティックでの3回前転に水を向けると、笑顔でこう答えた。

 

「自分は3年で最後だから、勝負したいという気持ちがあって。バカな判断だったろうけど、後悔はしていないです」

 

 あの3回前転の選択は、彼のかつての性格を知っている者ならば、驚くべきものだった。ジュニア時代、川東は本番で十分に実力を発揮できない選手だった。全日本ジュニアでは、ミスが相次いで演技が形にならなかったこともある。印象的だったのは、高校1年の時の言葉だ。自身を「緊張しやすいタイプ」だと話す川東は、こんなことを言っていた。

 

「練習で先生の前で通すときでも、すごく緊張するんです」

 

 その選手が、「ノーミスなら優勝も」という場面で、勝負に出ることを選んだ。「欲を出すな」という監督の指示に背いても、攻めることを選んだ。ミスすることの怖さも、した後の後悔も嫌というほど知っている。それでも勝負に出られるほど、彼は強い選手になっていた。

 

 結果として、川東はこの選択で優勝を逃すこととなった。だが代わりに、彼にとってより意味のあるものを手に入れた。

 

「演技が終わって、先生や応援してくれた人たちのところに挨拶に行ったんですが、そこでいろんな人に『感動した』とか『鳥肌が立った』とか言ってもらえて。自分の演技には『人の心を動かす』というところが足りなかったので、みんながそう言ってくれたのがすごくうれしかった。ずっと、そういう演技ができる選手になりたかったので」

 

 彼の清々しい表情の理由が分かった。この日、彼はずっと欲しかったもの――あるいは、優勝という言葉よりも――欲しかったそれを、手に入れることができたのだ。

 

Text by Izumi YOKOTA