穴久保璃子(イオン)が「手に入れたもの」その①

穴久保璃子(イオン)が「手に入れたもの」その①
~第21回全日本新体操クラブ選手権

 

8月24~26日に行われた全日本クラブ選手権のシニア個人総合で、穴久保璃子(イオン)が優勝した。全日本クラブ選手権では、過去20回のうち12回、イオンの選手が個人総合で優勝している。
だから、穴久保璃子が優勝してもとくに驚きはないのだが、じつは、穴久保にとってこの優勝は、厳しく、長い道のの果てにやっとたどりついたものだったのだ。

穴久保璃子の初公式試合は、小学4年生のときに出場した第3回全日本クラブチャイルド(2000年12月1~3日)だ。このとき穴久保は、オリジナル賞を受賞している。このころは身長もまだ小さく、頼りないほどにあどけない女の子が、イオン風のちょっと背伸びした大人びた振付で踊っていたことを思い出す。
クラブチャイルドで上々のデビューを果たした穴久保は、2001、2002年と、クラブチャイルド5・6年の部を連覇。当時、「チャイルド熱」は高まる一方だったため、その最高峰の試合であるクラブチャイルドを連覇した穴久保は、羨望の的であり、期待の星だった。

しかし、中学生になると、様々な困難が彼女を待ち受けていた。中1だった2003年の全中では、41位。このときは脚がかなりひどい状態だったとは聞いているが、それにしてもチャイルドの女王から立場は一転した。この年、穴久保は、クラブ選手権にもイオンのジュニア選手として初出場。シニアの横地愛、中村八千代という二枚看板の時代だったため、チーム優勝は遂げたものの、ジュニア個人総合では6位に終わっている。同年、全日本ジュニアでも19位だった。故障もあったとはいえ、穴久保の中学デビューの年は、かなり厳しいものだった。

2004年、中学2年生になった穴久保璃子を、私は関東中体連で見て驚いたことを覚えている。身長がぐっと伸びていたのだ。成長期ゆえか、相変わらずあちこち故障はあるようだったし、手具操作には生真面目さと不器用さが露呈してはいたが、それでも、体が大きくなったことによって演技にはスケール感が増していた。それまでは、どことなく「ひ弱」な印象がぬぐえなかった穴久保が、まったく違う選手に見え始めたのがこの年だった。
そして、2004年は全中7位、クラブ選手権ジュニア総合4位、全日本ジュニア3位と、飛躍の年になった。
穴久保の1つ上の学年は、非常に選手層が厚かったため、(元フェアリージャパンの三澤樹知、稲垣早織、坪井保菜美、原千華や、インターハイ3連覇の庄司七瀬など)それらの選手が抜ける2005年こそは穴久保がジュニアチャンピオンになるだろう、と予感させる2004年だった。

2005年、この年は、クラブ選手権の時期が早く、全中よりも前に行われた。ジュニア個人総合優勝は、穴久保より1つ学年が下だった舛中はるな(NPOぎふ新体操クラブ)。穴久保は2位に終わる。しかし、クラブ選手権の4日後に行われた全中では穴久保が優勝をおさめる。フープでは、穴久保を上回っていた横山加奈を、ロープで逆転して僅差の優勝だった。クラブチャイルド以来、初の「優勝」を中学3年目にして穴久保はやっと手に入れたのだ。ところが、2か月後の全日本ジュニアでは、またしても舛中が優勝。穴久保は横山にも負け、3位に終わってしまう。

穴久保璃子が、高校1年生になった2006年。まずユースチャンピオンシップで10位となる。いわばそこが穴久保の高校時代のスタートだった。当時の千葉には、日高舞がいたため、インターハイには出場できず。早生まれのため、この年までジュニアとして出場資格をもっていた穴久保は、ジュニア最後のクラブ選手権に出場するが、ここでも3位に終わる。優勝したのは、現フェアリージャパンの田中琴乃だった。
そして、全日本ジュニアにも最後の挑戦をするが、フープでの場外が響き、4位と前年度よりも順位を落としてしまう。この年は、イオンカップの開催が全日本ジュニアよりも遅かったため、全日本ジュニアには穴久保を追うテレビの取材が入っていた。フープで場外したあと、体育館の隅でずっと泣いている穴久保の背中が、イオンカップの事前番組でテレビに映し出されたことは、今でも私の記憶に残っている。

中学1年から高校1年の4年間、いわゆる「ジュニア」としての穴久保璃子が優勝したのは、中3のときの全中のみだった。こと、クラブ選手権では、トップクラブである「イオン」のジュニア選手として4年連続出場しながら、ジュニア個人総合優勝に1度も手が届かなかった。
当時は、まだ横地が現役でチームを引っ張っており、クラブ対抗でのイオンの連覇は続いていたが、イオンの次世代を担うと期待されていた穴久保璃子は、「なかなか勝てない選手」から脱皮できずにいた。       (つづく)

text by keiko shiina