「引き出し」~福永将司(国士舘大学)

今年の男子全日本チャンピオンの福永将司(国士舘大学)は、その卓越した技術力、実施力で大学4年間、ほとんどの大会で好成績をおさめてきた選手だ。

そして、その4年間の大学生活を締めくくる2018年、全日本インカレ、全日本選手権と2冠を獲得。

その戦績だけを見れば、文句なしに「強い選手」だといえる。

 

だが、全日本インカレを制した直後に彼が発した言葉に私は衝撃を受けた。

 

「種目別決勝のフロアに上がると、自分は求められていない、と感じる」

 

彼はそう言ったのだ。

福永を語るときに「謙虚」という言葉がよく使われる。

演技後、フロアを降りたときの四方に対する丁寧なお辞儀や、その言葉の端々から感じられる「自分はまだまだ」という気持ち、さらに、他の選手たちや指導者に対するリスペクトなどから、彼に接した人のほとんどが、彼の美点として、その「謙虚さ」をあげる。

たしかに、競技者にとって「謙虚さ」は必須だ。

全日本インカレを制したからといってふんぞり返る福永将司なんて見たくはない。

だが、「自分は求められていない」と感じて欲しくはなかった。

なんて哀しいことを言うのか、と胸がつまった。

ただ、彼がそう感じてしまう気持ちも、わかる気がした。

大学1年生のときから、福永の演技には大きな欠点はなかった。

体操にも変な癖がなく素直できちんとしている。小柄なので、見落とされがちだが、動きに大きさもある。

タンブリングも強かった。ものすごい大技をやるわけではないが、そのスピード。そして、着地までしっかり意識された足先の美しさは、男子新体操選手の中でもトップレベルだった。

手具操作もうまい。落下などのミスをしないだけでなく、操作が常にスムーズで基本に忠実だった。

そして、なんと言っても本番でのミスの少なさ。

当然、上位には入ってくる。

種目別決勝にも残るようになる。

するとそこには、昨年までなら永井直也、小川晃平がいた。

能力が高いだけでなく、カリスマ性とも言ってよいほどの魅力をもち、そこを評価される選手たちがいて、種目別決勝ともなると、観客が彼らの演技を待望する空気は、おそらく演技フロアにいても伝わってきていただろう。

今年は、ついに全日本インカレでチャンピオンにはなったものの、福永は、自分がそういう存在になりきれていないことを感じていたのだと思う。

永井や小川だけでなく、今年のインカレで種目別決勝に残ったメンバーにも、堀孝輔や安藤梨友、佐久本歩夢、栗山巧、さらに国士舘の後輩である川東拓斗や石川裕平など、「得点や順位以上に」会場を沸かせる演技をする選手たちがいた。

「謙虚」なのではない。

福永将司は、その差を客観的に見つめることのできる選手だった。

だからこそ、チャンピオンになってもなお、「自分が一番だ」と過信することはできなかったのだと思う。

その哀しいまでの客観性をもっていたからこそ、福永は、インカレに続いて全日本選手権をも制した。

おそらくそうなのだ。

責任感の強い彼は、国士館の4年生として、個人選手のリーダーとして「自分がもっとも勝ちに近づける選択」をしてきたのだ。

つまり、自分の一番の強みで勝負する、という選択だ。

その生真面目さと、負けず嫌いで、「人より劣るところをそのままにはしたくない」と彼は言っていた。だからこそ、彼の演技には技術的な穴がなかった。だから、そんな彼ならば、もう少し「表現力」で魅せる演技にいつかはチャレンジしてくるのではないか、と思っていた。期待していたと言ってもいい。

ところが、彼は、結局4年間、その点ではあまり大きくは変わらなかった。いや、もちろん、変化はした。以前はあまりにもうますぎてさらっと見えてしまった演技に、メリハリがうまれ、それゆえに、評価も上がってきた。しかし、それでも、いわゆる見ている人の感情を揺さぶるような、そんな演技を見せることはなかった。

福永の演技は、いつもお手本のように正確で、技巧に富んでいる、そしてミスがない。その巧さと強さには誰もがうなる。

ただ、その世界観に惹き込まれる、というタイプの演技ではなかった。それゆえに、男子新体操のそういう面に強く惹かれる人から見れば、たとえチャンピオンにはなっても、そこが「物足りないチャンピオン」だったかもしれない。

 

この4年間で、何回か「しっとり系の演技はやらないのか」と聞いてみたこともあった。

すると、「表現はあまり…」と濁されることが多く、やはり苦手なのかな、と思っていた。苦手だから、というよりも評価されないかもしれないから、より確実に勝ちに近いほうの道を、彼は選んでいたのかもしれない。

 

すでに、全日本チャンピオンになった福永将司には、多くの演技会のオファーが舞い込んだ。

先月は、小林市での演技会にも登場したが、そこで披露したクラブの演技は、曲が「春よ来い」の歌詞入りバージョンだった。

もうひとつは、4手具+傘を使った楽しい作品で、こちらの使用曲は「歩いて帰ろう」。

「試合」から解放された彼の演技には、いつもの大会での演技とは違う表情があった。

なにせ、もとが鹿児島実業の新体操部だ。

本来、観客の反応には人一倍敏感なはず。楽しませたいという思いは強かったはずなのだ。

小林の演技会を見たときに、「勝つ」という大きな使命を肩からおろした福永の姿が見られたような気がして、嬉しかった。

 

そして、今日。12月2日。

故郷である鹿児島で行われた「かごしま体操フェスティバル」で、福永将司は、今までの彼とはまったく違う演技を見せてくれた。

試合着ではない、上下とも黒のシャツとパンツ。

演技が始まる前から、競技用作品ではないだろうと予測はできた。

そこに流れてきた曲は、、、  I  love you   だった。

尾崎豊の名曲。聴けばだれもがせつない気持ちになるあの曲だ。

いつもの福永の演技とはまずまったく曲のテンポが違う。

名曲なだけに、この曲を流しているだけで、演技はいつも通りでは単なるBGMになってしまうところだが、

彼の演技は、そうではなかった。曲の緩急、抑揚を動きにしっかり反映し、かつて見たことのない情感豊かな演技をやってのけたのだ。

得意の手具操作も、もしかしたらこの演技のために今まで技術を磨いてきたのか? と思うくらいに、冴えわたっていた。投げの大きさやスピードまでも、きちんと計算されているかのようだった。いや、きっとコントロールしていたのだ。

動きも、ときには普段の演技よりも、ぐっと引っ張って止まって見せたり、手具のキャッチに余韻をもたせたり。

福永ほどの技術があれば、こんなこともできるんだ、と感じさせるところが随所にあった。

そして、なんと言っても、止まって見せたそのポーズのひとつひとつが息をのむほど美しかった。

かかとは高く、つま先も膝も伸び、どこまでも美しかったのだ。

競技生活においては、避けてきたタイプの演技だと思う。

こういう表現に関しては、ほかにも長けた選手がいる。自分はここ(表現)を強みにできる選手ではない。

おそらく彼はそう判断していたのだろう。だから、やってこなかった、見せてこなかった。

でも、だからと言って「できない」わけではなかったのだと、全日本チャンピオンになって1か月以上経ってから、彼は証明してみせたのだ。

そして、いざこういう演技をしたときに、福永の演技のもつ正確性が、なんと大きな武器になったことか。

情感たっぷり、表現力豊かな演技でも、ミスがあったり、足先が汚かったり、そういう綻びがあれば、描く世界には入り込めない。

観客は、現実に引き戻されてしまう。

が、彼の演技には1秒も淀みがなく、手具が宙に舞っている時間までもがコントロールされているように見えた。

「技術に裏打ちされた表現力」の凄み。

それを福永将司は、多くの後進たちが見守る故郷・鹿児島で披露してくれた。

この日のフェスティバルには、鹿実RGの小中学生、鹿実OBが指導するタートルスポーツクラブの男子新体操選手たちも、数多く参加していた。

彼らの目に、福永の演技はどう映っただろうか。

凄い! と思ったには違いないが、彼らに知っておいてほしいのは、「決して一足飛びにここにたどりついたわけではない」ということだ。

努力して努力して努力して、よい結果を得ても、そこで満足せずに、常に自分を見つめて見つめて。

やりたいこと、やってみたいことと、できること、評価してもらえること、とのバランスを考え抜き、勝負からは逃げず。

そうやって戦い抜いて、勝ちきってきたから、やっとできた演技なんだと。

勝ち抜くために彼が身につけてきたたしかな技術がすべて、彼の表現を助けてくれたからこそ、

福永将司は、まるで自分が歌っているかのように踊っていた。

「表現は、、、」と言葉を濁していた選手はもうそこにはいなかった。

学生最後の年。

もしかしたら競技生活も最後なのかもしれない年の、それも本当に最後の最後にきて

こんな引き出しを開けて見せてくれるとは。

 

福永将司。

鹿児島実業が生んだ初の個人チャンピオンは、まさにチャンピオンに相応しい器の大きさをもった選手だった。

 

PHOTO  &  TEXT:Keiko SHIINA