終幕 ~2012引退セレモニー

体操競技は、見慣れていないと観戦がなかなか難しい。

フロアのあちこちでいっせいに競技をやっているので、ある選手を見ていたら、同時に、見たかった選手が違う種目をやっていて、気がついたら終わっていた、ということがよくあるのだ。

「見たい」と思っていた選手でさえ、見損ねることがある。

そんな体操競技の会場で、「見よう」と意識していたわけではないのに、目に飛び込んでくる演技がたまにある。

 

2012年11月3日。

全日本体操競技団体選手権での大島杏子(朝日生命)のゆかがそうだった。

女子の団体は、第4ロテーションに入る前に、日本体育大学の優勝がほぼ決まっていた。

朝日生命は、第4ローテーションがゆか。大島は朝日生命の3番手としての出場だったが、同時間に跳馬にはレジックスポーツ、平均台に戸田市スポーツセンターが登場しており、私はどちらかというと、来年以降台頭を現しそうな若い選手の多い、それらのチームのほうにより注目していた。

ところが、ふとした瞬間に、大島がフロアに入る姿が目に留まった。

大島杏子が、この大会をもって引退するという報道はすでになされていたので、「あ、もしかしてこれが最後の演技」と思い、ゆかのフロアに注目した。

大島のゆかは、タンブリングで少しばかりミスもあったようだったが、「大島らしい」という意味で、とてもいい演技だった。

そう。大島杏子のゆかは、とても踊り感があり、私は大好きだったのだ。

長年、新体操を見てきている私には、女子のゆかは、音楽を使っていながら、あまり音楽との一致などには留意されていないところが、残念に感じることが多いのだ。もちろん、重視されいる要素が違うのだから、それは仕方ない。競技の特性だと思うようにしてきた。

ただ、それでも、なかには、「おおっ」と思うような表現力のある演技を見せる選手もいる。大島杏子は、その1人だった。もちろん、体操競技である以上、タンブリングやターンなどの難度は必要だ。そこが高い選手には、少々、すてきに踊ったところで勝てるものではない。

しかし、たとえ勝負には負けても、見ている者の心に残ることはある。

大島杏子のゆかには、そんな力があったことを、私は彼女の最後の演技を見ながら思い出していた。そして、この日の演技でも、その力はしっかり発揮されていた。

何点出るのかはわからなかったが、きっと彼女はこの演技に満足しているだろう。

そう感じさせる演技だった。

いや、この演技だけではなく、「わが体操人生に悔いなし」という彼女の思いが、しっかりと伝わってきた。だから、この演技を見逃さなくてよかった、と心から思った。

 

3日目の競技終了後、引退セレモニーが行われた。

男子の水鳥選手、中瀬選手、そして大島杏子選手に花束が贈られ、スピーチがあった。

どの選手のスピーチもすばらしかったが、最後の大島選手のスピーチは心にしみた。

彼女は、「6歳から体操を始めて、20年間やってきて…とても…そんなによくはなかったのかもしれないけど。」と言ったのだ。おそらく「とてもいい体操人生だった」と言おうとしたのではないかと私は思った。しかし、「とてもいい」と言えるほどの実績が自分にあるのか? と思ったのではないか。そんな風に見えた。

 

大島杏子の体操人生は、十分に輝かしいものだった。

アテネ、北京と2回もオリンピックに出場し、世界選手権にも数多く出場している。

これが「輝かしい」と言わず、どうする? と思う。

が、しかし。

大島が日本の体操女子の頂き近くにいたころ、日本の体操女子は不振にあえでいた。大島が個人総合53位だった2003年の世界選手権(アメリカ開催)では団体総合14位で翌年のアテネ五輪の団体出場権を逃している。その前の、シドニー五輪に続いて「団体出場なし」という危機的状況にあったのだ。

大島は、アテネ五輪に個人選手として出場したが、予選51位で決勝には進めなかった。五輪の翌年、2005年の世界選手権では、大島は個人総合予選10位、決勝19位となる。おそらくこのころが大島がもっとものっていた時期だろう。しかし、次の五輪まではあと3年もある。

そんな星回りの選手もいる、ものだ。

大島がけん引役となっていたころから、日本の女子体操は徐々に変わっていった。

そして、2006年、2007年と連続して世界選手権で団体12位となり、北京五輪での団体出場権を獲得した。まだ記憶に新しいかと思うが、北京五輪では、団体総合が決勝に残り、最終的には団体5位という結果を残した。このとき、大島は個人でも、予選27位。決勝ではそれを20位まで上げた。

大島杏子は、世界に置き去りにされていた時代の日本の女子体操を支え、日本が再び世界の列強の中に入れるようになった北京五輪にも選手としていた。どん底も、歓喜も味わってきた選手と言えるだろう。

北京五輪以後は、世界選手権に出場しても、種目数が少くなってきていた。おそらくここ数年は、「いつまでやるんだろう」という思いと戦っていたのではないかと思う。

 

それでも大島は、「いい体操人生だった」と言いたそうだった。横に並んでいた男子選手達のように五輪でメダル獲得というわけにはいかなかったが、それでも、おそらく充実した競技生活だったに違いないから。最後に、笑顔で満足して終われるのなら、それはまぎれもなく「いい体操人生」であり、胸を張ってそう言ってよかったのだが。

 

また、大島選手は、スピーチの最後に、「この年齢まで体操を続けさせてくれた両親への感謝の気持ち」と、「これまで見捨てずにくださった先生方への感謝」を述べた。

「見捨てないでくれてありがとうございました」

この言葉は、本気で見捨てられることを心配したことのある人にしか言えないと思う。

どんな思いを抱えながら、彼女は、この日までを過ごしたきたのだろう、と思うと、胸が苦しくなりそうだった。

 

引退セレモニーのあと、大島選手に少し話を聞くことができた。そのときの話でわかったのだが、最後の演技となったゆかは、社会人大会のあとに選曲、振付をした新作演技だったのだそうだ。もうこれで最後とわかっている大会でたった1回踊るためだけに作った作品。

「コーチがセレクトしてくれた曲の中から、一番自分が気に入って、自分らしく踊れると思った曲にしました。」

と大島は言う。自分で選んだ曲での、ラスト演技。そこに込められた思いがあったから、あのときのあの演技は、すうっと私の胸に届いたのだ。

「小さいころはモダンバレエを習っていたこともあって、やはりゆかは踊るという部分をなくしたくなくて。たとえ点数は伸びなくても、そこは大事にしたいと思っていました。」

引退したあとに、やっと大島のゆかに対する思いを聞くことができた。

引退後は、アメリカでコーチ修行をして、将来は後進の指導にあたりたいという大島。

どうか、自分が大切にしていたものを、しっかりと後輩達に引き継いでくれるように期待したい。

text by Keiko Shiina